最近、3月11日のことを振り返る機会がありました。
自分の中でも大きな転期となった日なので、
書きとめておくことにしました。
地震発生当時、私はアルバイト先の印刷所にいました。
尋常ではない揺れだったので自宅にいる義母が心配になり、
すぐに携帯電話をかけましたが繋がりませんでした。
その後職場のテレビをつけ、東北で大きな地震があった事を知りました。
震度より先に津波警報が出ていたのが気になりましたが
直後に岩手県で20センチの津波が観測との報道が流れ、
いつもどおりに大した津波ではないとホッとしました。
会社の電話からやっと自宅に通じたら、義母が逆に私を心配していました。
「津波が来ちゃうから、早く帰ってきなよ!」
その声に驚き、すぐに帰宅の準備をしました。
その間ほんの2,3分だったと思いますが、
テレビの前に戻ると先程とは打って変わり
津波が港に上陸して車を流している映像が流れていました。
職場を出ると、国道はいつもどおりでした。
でも海に面したところでは漁師さん達が沖を見ていたり、
海岸の河口では水が噴き出していたりといつもと違う光景が見られました。
さらにバイパスを抜けると、
眼下の勝浦湾では大きな渦潮がいくつも出来ていました。
月の引力と地球の波動のせめぎ合いに翻弄されて
海が困惑しているように見えました。
あたりには津波警報とサイレンの音が鳴り響き、
事態が深刻であることを改めて思い知りました。
私は、子供たちのもとへ急ぎました。
4人の子ども達の通う保育園と小学校、そして中学校は高台にあって
それぞれ地域の避難所になっています。
ひとまず保育園で四男を引き取り、その後は自宅へと急ぎました。
先ほどの海は、こんどはずっと沖まで磯が引いていました。
すぐに津波の前の「引き波」だとわかりました。
スマトラ沖地震の津波の報道を思いだし、ぞっとしましたが
歩道には見物人がたくさんいました。
自宅に着くと、ちょうど義父母が避難するところでした。
丘の上の作業場に避難するというのですが、
子ども達が気になる私は小学校に向かいました。
消防団で出動したという夫のことが、
とても気になりました。
小学校では、当時5年生の次男と3年生の三男が
防災頭巾をかぶって待機していました。
非難会場の音楽室に行くと
子ども達みんながテンション高めで興奮していました。
学校の3階からは海の様子が見えて、
今までにないほど水位が上がるのがわかりました。
津波をあんなに身近に感じたのは初めてでした。
中学校で待機している長男が、心配でした。
それから
別の場所へと向かった義父母と、夫のことも。
海岸にいた近所のおじさんやおばさんのことも。
そして、宮城の親戚のことも。
離れたところに住む身内や友人は、
ミクシィのつぶやきとログイン状況で安否確認が出来ました。
その後、6時過ぎにやっと小学校を降りられることになり、
中学校にいた長男とも会うことが出来ました。
長男は意外にも心細かったようで
誰も迎えに来なかったらどうしようかと不安だったそうです。
長男の友達数人を家まで送り、
家に戻ると義父母はすでに帰宅していました。
やがて夫も帰って来て安心しましたが、
テレビの映像からは目が離せず、眠れない夜をすごしました。
あの日以来、自分達が地球という不安定な星の上で、
大気や海、大地、そしてさまざまな自然から守られて生きていることを実感しています。
運がいいとか悪いとかではなく、
みんなが奇跡的に重なり合った偶然のうえで存在しているに過ぎないのだ、と。
「その時」はいつやってくるかわからないから、
家族や大切な人たちにはいつもきちんと愛を伝えて、
さまざまなことに感謝して暮らさないと、と思っています。
画像:
非難先の小学校で見た夕焼け空。
いつもより恐ろしいほどに美しく、そして悲しく心に焼き付きました。